海山にこいま 熊野古道バックパッカー

紀伊路第3弾パート32

さて、紀州東照宮を目指す!。

川岸の歩道には、それはそれは格好の良い松が植えられていてびっくりする。和歌山の観光の力を見る思いがした。                              

すると、これがさっきの説明板の有名な歌なんだなと。

若の浦が満潮になってくると、干潟が無くなり始めるから鶴は鳴きながら葦のある場所に集まる  と言う事なんだろうかと。サギじゃあない鶴だぜ。江戸時代ではなく万葉の時代だからもう古代の時代だな(笑)。いや、700年ぐらいだろう。まあそんな時代は鶴なんて普通に居たんだろうな。

善太郎の道中日記からも、それはそれは素晴らしい風光明媚な場所だったと感じられる。

道中日記を書いた善太郎の母登勢さんは歌も詠んでいるんだ。

おおっ!見えて来た。紀州東照宮!。

歩いて来た道は元は海だったのだろうか?なんて思っていた。私の推測ではどうにもならないが、6つの島は元は一つの山だったのだろう。侵食され島に分かれたが、満潮時に海になるような浅い海だったのかもしれないな?と。善太郎らはそんな地形を見ていたんだろうと考えていた。

砂浜は和歌川や紀の川から流れて来てのだろうか。この辺り一帯は砂浜の干潟のような所だったのかも。

紀州東照宮の横には御手洗池があった。

おそらく海跡湖と言うか、ここまで海だったのかな?なんて考えても、まあどうでもよい事だな!と言ってしまうところだが、ボクにはそうはいかない!。

善太郎らの足取りだ。この場所から善太郎らは左、海側に向かったか?右、和歌山城側に向かったか?の分岐点なんだ。

つづく〜( ´ ▽ ` )

by理事長

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