リュックに付けた♪

善太郎がここに居る!と。本当勝手なボクだな。まだ善太郎に渡してもないのにね(笑)。
こんな物。


しかし、ガッカリしたのだ。安いな!とは思ってはいた。那智黒石ではなくプラ系だった。聞いた事があるが、那智黒石の加工から出た粉をシリコンかなんかで再生するのだとか。手頃な値段で売っているのはみんなそのような物だろう。まあ仕方ないなとボクには満足してる。その意味は文字や観音様が消えないよう彫り込み型になっているからでもある。石なら印刷になるだろうし。
そして、今九州伊万里まで行ったり来たりしているボクだ。グーグルマップでね(笑)。こんな時は本当に便利な世の中になったものだと感謝しかない。
この文面を見てほしい。

アンダーライン、立花町六仙寺の若宮社にある献燈と。前川善左衛門とは善太郎のことだが、この若宮社をグーグルマップより探しに行っていたのだな。かなり悩まされた。六仙寺がネックだった。寺の中に神社があるのか?と。
見つけた!。

画面右下に若宮神社、そして左側でかい交差点に六仙寺と読み取れる。六仙寺と言う寺は見つけられない。現在は地名だけになっているのだろう。恐らく古い地名で現在は使われてはいないが、交差点に付けたのだな。もしかしたらそこに本当に寺があったからなのだろうか?と。
なんか楽しくないかな!?ボクはこうやって善太郎の道中日記に出てくる地名等を探して足取りを追いかけているのだ。ボクにはワクワクするのだが(笑)。
さらに!。

ストリートビューだ。見える石燈篭が善太郎が寄贈した物なのか!?と感動して鳥肌立った。善太郎の店跡、自宅、お墓等まだまだ探したい。でもグーグルマップからはもう限界にも来てるか。伊万里へ行けば善太郎の道中日記の出版した伊万里民族資料館があるし伊万里市陶器商家資料館もある。まずは民族資料館に駆け込むな(笑)。
また、青岸渡寺にあったこの看板をゆっくり読んで愕然ともきた。

ボクは歴史については勉強していないからわからなかった。明治の神仏分離は知っていたが、青岸渡寺とは分離するために付けた名前だとか。
それで急いで善太郎の道中日記を見た。

解説には青岸渡寺とは出ているが、道中日記では那智山や那智観音様としか記していない。やっぱりなと。確か日本は世界と戦争を始めるための神仏分離だったと記憶はしているボクではあるのだが。そしてまた、豊臣秀吉が登場したな(笑)。
そして何より何故ボクが善太郎と出会ったかだ。熊野古道が世界遺産に指定され、当時海山町だった時に海山町の熊野古道町中マップを作るに辺り、江戸時代当時の道中記をマップで見せたいと三重大の塚本先生にお願いし、紹介されたのが善太郎道中日記だったのだ。そして何故ボクが善太郎を身近に思ったかがこの文面だ。

この船津村よき村なり と。
船津とは現在ボクの自宅がある場所も含まれるんだ。しかし、善太郎らが歩いた江戸時代当時はボクのご先祖様は船津村には居なかった。大正時代ぐらいに和歌山は中辺路の通る鮎川と言う場所から移り住んだのだ。
もしかしたら鮎川でご先祖さまは善太郎らと会っているかも?とは思うと楽しいのだが、道中日記を書いた母、登勢さんは泊まる宿の良し悪しはよく書いているが、一つの村をよき村と書いているのは船津村しかボクにはまだ探せていない。
何故よき村と言ったかだ。これは現在にもヒントになると思っている。もしかしたら船津村人は善太郎らに、どこから来たんどい〜と話しかけ、ま〜あら遠いとこから来たんやね〜休んでってい〜とお茶でも出したんとちゃうやろか!?と(笑)。
塚本先生からは、この道中日記は内容詳しく詩までよみ、別格だ!と聞いた事でボクは善太郎を尊敬し身近に感じ追いかけてみたい!と思ったのだった。
うん。善太郎に会いたい。
by理事長